そんなこと考えたこともないのだろう。 人がいようがいまいが「わたしはわたし」とでもいうのだろう ある意味うらやましい。
東海林さだおのエッセイで何をくおうが全く感想ももたない「なーんも考えてない人」と いうイラストが出てくるがそれを具現化している。 トイレでどまんなかの便器を使って、あとから誰がどちらがわに来ようが密着することに なるがそんなことも気にならないのだろう。
そういや、いつも駐車場のスペースからはみ出ていて通路を狭くし 他車の通行を妨げてるむとんちゃく野郎もいる。 同類。
そんなこと考えたこともないのだろう。 人がいようがいまいが「わたしはわたし」とでもいうのだろう ある意味うらやましい。
東海林さだおのエッセイで何をくおうが全く感想ももたない「なーんも考えてない人」と いうイラストが出てくるがそれを具現化している。 トイレでどまんなかの便器を使って、あとから誰がどちらがわに来ようが密着することに なるがそんなことも気にならないのだろう。
そういや、いつも駐車場のスペースからはみ出ていて通路を狭くし 他車の通行を妨げてるむとんちゃく野郎もいる。 同類。
とりあえず呼んできて、引退後は国籍がないと相撲界に残れない (どうとでもなれ)というブラックな仕組みをつくっておいて、 それでも帰化人は「ネイティブじゃないし」とでもいうのは、これまたブラック企業の言い訳っぽい。 ラグビーの日本代表では帰化した人も多いようでもてはやされてるが、これは国際大会で戦うからで、 国内でしか戦わない相撲だと結局は「ガイジン」扱いということか。
夫の姓を選ぶケースが圧倒的に多いことや、第三の姓が選べないことの方が問題と思えてしまうのだが.
例えば住宅街の自治会の集まりに「山田家」を代表して「山田太郎」が出席したら 「山田さん」なり「山田クン」で呼ばれるのはわかるが、個人を指す場合でも (個人に与えられた呼称である) 「名」じゃなくて「姓」で呼ばれることが当たり前、という習慣自体が異様にも思える。
ふざけているようだけれども、一つ実用的な解がある。 裁判所に申し立て をすれば名前は変えられる。
例えば「山田太郎」と「川田花子」が結婚するとする。 新しい家庭の戸籍は「川田姓」を名乗るとする。 しかし「山田太郎」は「山田」にこだわるとする。 そこで太郎は裁判所に申し立てして「山田太郎」を「名」にしてしまう。 つまり、新しい家庭における姓名は「川田山田太郎」になる。「山田」が新しい家庭を作っても残るし、(以前の)「姓」が「個人の人格の一部」になっているのであれば 「名」と一体化してしまった「山田太郎」を個人の名前にするのはある意味大変自然と思える。 だれかやってみないかな。